根上生也『ピジョンの誘惑』と計算しない数学

鳩ノ巣原理、というものがある。たいていの人は大学以上の数学で知ることになる原理だが、とても単純な原理だ。

鳩が10羽いるのに、巣が9個しかないならば、どこかの巣には2羽の鳩が入ることになる

鳩のほうが多ければどこかに重複がある。このまったく当然としか言いようのないものに「鳩ノ巣原理」というたいそうな名前が付いている。

根上生也『ピジョンの誘惑』はこの鳩ノ巣原理を題材にしたパズル本だ。

鳩ノ巣原理オンリー本

61ex5j757xl-_sx341_bo1204203200_ピジョンの誘惑』には、論理パズルか数学パズルというべき問題が70問用意されていて、一部では鳩ノ巣原理オンリー本などと呼ばれていたりする。この「オンリー本」という表現にはある種の畏敬の念のようなものが込められている、とぼくは思う。

鳩ノ巣原理というのは上記の通りあまりにも自明な話である(原理というのはそうしたものだけれど)。だけど自明すぎて、えてしてどう対応していいかわからない。ぼくも大学の数学で学んだけれど、あまりの自明さに釈然としなかった思い出がある。なんというか、だから何というか、それって何の意味があるの、といった疑問がわく。

この本は70題ものパズルを通じてこうした疑問に応える。特に中盤の中級編では、様々なシチュエーションやパズルが鮮やかな形で鳩ノ巣原理に帰着されて解決される。このバリエーションの多彩さは、シンプルな原理の強力さをうまく提示できていると思う。

終盤はグラフ理論や離散数学の話になっていく。このように非常に自明な原理からかなり複雑な数学の定理まで導き出されることにも個人的には面白さを感じた。内容というか単語が専門的なので読み進めるのが難しい向きもあるかもしれないが、著者はちゃんと用語を解説してくれているし、雰囲気はつかめることだろう。

良い本だと思う。

計算しない数学

41opxptyt8l-_sx298_bo1204203200_さて『ピジョンの誘惑』のあとがきによると、この本は同著者の『計算しない数学』という本の流れを汲んでいるという。

そういう流れで読んだので少し拍子抜けしたが、『計算しない数学』は一般向けのふつうの新書なのでパズルや数学の具体的な問題を解説した本ではない。どちらかといえば著者のこれまでの一般向けの活動(テレビ番組とか)についてどういう意図を持っていたかが語られている。

だがそうした話を踏まえて、終章での「計算しない数学」の提言が面白い(いちおう補足しておくと……計算機科学的に「計算」というのにいろいろあるというツッコミはありうるけれど、ここでは著者が使ってる、一般的な意味での計算行為を考えている)。

著者はまず、現代的な微積分を重視する数学教育が20世紀初頭に出現した、という点に着目する(その事自体、知らなかったので目鱗)。この教育課程は20世紀には機能した「物理学のとなりにある数学」であるが、情報化社会となるであろう21世紀には異なる数学教育を目指すべきだという。そしてそれは、コンピュータを援用したグラフ理論や離散数学などを重視する数学教育であり、こまごました計算能力よりはむしろ論証する力を育むことを目指すべきなのだという。

……というのは、著者が本を書いて説明していることをぼくが1段落にまとめたものなのでツッコミどころもかいま見えるだろうけれど、本を読むとそれなりの説得力はある。とはいえ異論のある人もいるだろうし、いかに説得力があっても実現性についてとか、いくらでもツッコミを入れる人はいるだろう。

だが……でも、というような不思議な魅力がある。

この目で『ピジョンの誘惑』を見直すと、なるほど確かにいっさいの「計算」がない。いっけん計算が必要そうな問題でも(まあ多少の計算はするにせよ、見た目ほどの複雑な)計算をともなうことなく論証をしている。

なるほどな、と思う。

なお著者の根上生也という名前はなんだか見覚えがあるなあ、と思っていたが、かつて「第三の理」という数学小説を書いた人でもあった。64段のハノイの塔を題材にした小説で、不思議な読後感の小説だったように記憶している。