ぼくらの七日間戦争

宗田理氏が亡くなったという報道をみた。ご冥福をお祈りする。

宗田理といえばもちろん『ぼくらの七日間戦争』だろう。自分はまさにその世代(よりはちょっと若い?)。とりわけ熱心なファンというわけでもない自分でも映画は見ているし(せいぜいテレビで放映された時に見ただけだが)、その後に原作も読んだ。その後「ぼくら」シリーズの続編小説も何冊か読んだと記憶している。改めて刊行履歴を見ていると2020年代に入っても続編やら新作やらが刊行され続けている長期シリーズなのであった。すごい話だ。

それはさておき『ぼくらの七日間戦争』だが、今改めて読んでみるとどう思うのか、流石に当時とは違った感じられ方になるのではないか、今読むと面白くないかもしれないが……と色々気になってきたので、読んでみた。当時は角川文庫で読んだと思うが、手元にはないので電子書籍版で買って読んだ。

さて。

確かに感じられ方は色々変わっていたなと思ったが、その変わり方は読む前に予期していたのとは違っていて、改めて読んでも面白く読めたし、再読してよかったなと思った。

第一に思うのは、この本、本当にギミックだらけというか、ギミックだけで構成されているような小説だなということだ。立て続けにいろんなことが起こる。同級生の誘拐、身代金の受け渡し方、校長や体罰教師との対立や仕返し、市長の汚職の暴露など、いろんな事件が起こっていき、それを主人公たちが鮮やかに解決したり、ダメな大人たちが酷い目にあうというシンプルな構成が繰り返されている。話としてはある意味では単純かつ単調ではあるんだけど、ギミック自体の面白さとかトリックの描写の面白さが優っていて面白く読める。初読当時にも思ったけど教師たちのために作り上げた迷路の細かい描写や、それによって校長たちが散々な目にあうところの細かい描写なんかが特徴的だ。そこが面白いので面白く読めるし、それは昔でも今でも変わらないなと思った。

読む前に勝手に予想していたのは、おっさんになって(まだ幼いが)子供を育てるようになった自分としては大人側に感情移入するようになるのではないか?というものだが、これはそういうことはなかった。本書に出てくる大人たちはわかりやすくダメに描かれているし、いわゆる「昭和」な感じがあって隔世の感が大きすぎるし、そもそも感情移入されることがないように描かれているように思う。たまに出てくる「いい大人」は特異なバックグラウンドの人たちで、そちらにも感情移入するということもない。が、当時と違うとしたら、主人公たちにも全く感情移入できなくなったということだろうか。初読時には結構感情移入して読んでいたような気がするのだが、今となっては傍観者的な立場で観察するような気持ちの方が今としてはまさってくるところがある。

そして、傍観者的な立場になって改めて読んでみて、ようやく気づいたのは本書の主人公たちの「思想のなさ」だ。映画版の影響か、過剰に行間を読み取ったのか、誤読か、なんとなく「80年代当時の厳しい管理教育と対立して自由を希求する子供たち」といった対立構造があったように記憶していた。その捉え方が完全に間違っているとまでは断言しづらいところがあるが、全体的なムードとしては主人公たちはあっけらかんとしていて、思想がない。これはこういう話としてはちょっと珍しいのではないだろうか?

普通、「中学校のクラスの男子全員が突然廃工場に立てこもって開放区を自称し、大人たちと対立する」というプロットだとすると、何かの事情があるということを想像するのが普通じゃないだろうか。物語の作り手としてもそういうものをどうしても考えてしまうのではないか。子供たちには立てこもるだけの事情があり、そのためなんらかの要求があり、それは大人には到底飲めないようなものなのでそこを巡って対立が起こる。要求が通るのかどうか、最終的にどんな解決を見るか……みたいな構造をとるのが物語っていうものなんじゃないか。しかも体罰教師によってクラスのうち一人が痛めつけられ入院しているという話まで用意されているのだ。そういう話が争点になったりとかするのが普通の話だろう。

これが全然違う。もちろん体罰教師は作中では最悪の人物であり作中でしっかり酷い目に遭わされるし、そこは物語の主軸の一つでもある。でも子供たちの動機は、いきすぎた体罰に対する逆襲とかでもないし、管理教育への反発でもない。もちろん大人は信用できないとか、そういう話はする。でもそもそも立てこもった動機がなんだったのかというと、はっきりとした動機は語られないというか、どうも大した動機はなかったようだ。なんとなくクラスみんなで廃工場で何日も過ごすの面白そう、みたいなぐらいの話しか出てこない。冷静になって起こった事象を見返してみると、親に内緒ではあるがみんなで何日かキャンプを過ごすのと何が違うのかというと、特に何も違いはないような気がする。

もちろん、立てこもりを「解放区」などと自称したり、「全共闘世代」の子供という世代性があり、挑発的な仕草を繰り返している。最後にはわざわざ安田講堂立てこもりの時の文章を引用したりする。だが子供達が思想的にそういう部分に共感しているかというと、全然ない。むしろ大人の側がこういう部分に過剰反応して、全共闘だとかテロリズムだ、反乱だなどと大騒ぎしてしまっている。子供たちは大人たちにそうなるようにしむけ、おちょくるためだけにこういう表現を使っているだけ、というふうに読める。

立てこもる理由は特にないから子供達は何も要求しないし、だから物語全体としては大きな対立構造というものが全然ない。大人たちも説得しようとしたりするが、何を言っても「そんなんじゃねえよ」といなされてしまい暖簾に腕押しだ。そして最終的には警察によって突破されるが……子供たちには立てこもる理由もないので、さっさと脱出しておしまい。あっさりしたものだ。一体この話は何の話だったんだろう? こういう話だったとは気づいていなかったな。そして傍観者的な立場としては子供たちが結局何をしたかったのかちょっとよくわからないな、と思ってしまった。肩透かしというか、全体的に虚無感があるというか……。

でも、そういうふうに読むのは違うのかもしれない。むしろ個々のギミックやトリックの描写が全て。そちらを楽しむべき小説なのかもしれない。

ともあれ面白かったです。